昭和47年09月24日 特別奉修委員
今教団でも、いろいろ言われておりますことですけれども。問題を問題として、その問題に取り組むということが言われておりますけれども。私の生き方は、問題というものはあろうはずはないです。もう神愛だけ、おかげしかないのですからね。だから問題を問題とするところに既に、金光教の信心がつまらないと、私は思うです本当はね。それを今日、富永さんのお取次させてもらいよってから。
ははぁこれがそれの実際だという風に、私は思ったんですけれど。先日ある対人関係で、それこそ、頭にがつっとくるという、がちっとくるげなことじゃない、それこそ涙がこぼれるほどしのことがあった訳なんですね。けれども、よくよく考えておられたら、はぁほんに、こちらが反省させて頂く以外に何にもないという事になってね。それから翌くる日、朝起きがけに、夕べは涙流ぇちから、ほんにカッカきとったから。
内容はどげなこつじゃったじゃか。どげなこつ言われたこつじゃろうかと思うて、思い出しても思い出しても、思い出せなかったと言うんです。私は、おかげの世界とは、これだと思うね。あの事だけは、私は一生忘れられん。と言うて、信心で今、抑えとるけんばってんち、そげな事なら、絶対に信心じゃないですね、抑えとるてんなんてんちゅうなら。その問題がなくなるということ。これが信心です。
だからね、本当に、稽古させて頂いて、お互いが問題が問題になるようなことじゃ、いよいよ詰まりませんです。もう問題じゃないです。その問題こそ、私を育てて下さるとする、神様の働き以外にはないのですからね。これは皆さんも、そのところを通られよるだろうけども、あまりにスッキリしたお話でしたからね、聞いて頂いた。思い出そうと思っても、思い出せなかったっちゅうんです。
昨日は、涙の出るほど腹の立った事じゃった、言うならばね。それはどういう事かと言うと、やはり前日、一生懸命、その事に取り組んで、残ったものは、自分が清まる以外にはないということだったのですから。それだけが残っておるだけ。自分が反省したことだけは、えらい頭の中に、ハッキリ出て来たけれども、その事だけは、どげんしても思い出せなかったと言うて、今日お届けしておられますよ。もう合楽の信心はこれ。おかげ頂かにゃいけませんね。
どうぞ。